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【インタビュー】『そこまで一緒に。』関寛之監督
――関監督は長く俳優として活動されてきていますが、40代で映画の専門学校に入ろうと思ったキッカケはあったのでしょうか?
「実は今から10数年前に一度だけ監督をした事がありました。あるワークショップに俳優として参加したんですけど、色々とあって僕が監督をして作品を作らなければならなくなったんです。その時に見様見真似で監督をして短編を1本作ったんですけど、当時はまったく監督をやりたい意欲はありませんでした。
2019年に40代で映画の専門学校に通い始めたのも、元々は俳優としての見識を高めたいというか。作り手側に立ってみたら、俳優とは違う景色が見えて、いい経験になるのではないかと思ったんです。だからまだ入学当初も監督への意識は余りありませんでした。ところが、実際に授業で作品を作ってみると面白い。それまでは自分が映画を作るなんて全く考えた事もなかったんですけど、監督をやってみたい方に心が動いてしまったんです。
あと、俳優をやっていてのストレスから解放されたというか。僕は脇役でずっときている俳優で、1シーンだけとか、セリフが1つだけの役が多いですが、でも、作品の為にこうした方がいいんじゃないかと、幾つか考えてしまう傾向がありまして。ただ、実際の現場に行くと気が弱く、その気持ちを押し殺してしまう。端役の分際で、自分が考えた様に演じて、監督の考え方と違い、撮り直しになって現場を止めてしまったら申し訳ないという気持ちの方が先に立つ。それでどっかで見た様な無難なお芝居や監督の指示通りの演技をして終わっていく。その様なストレスが蓄積されていきました。
でも、監督をしてみると、自分が求める、やってほしい演技を役者さんに伝える事が出来る。段取りでの役者さんのお芝居によって、演出も変わってきて、色々と芝居の事が考えられる。でも、役者さんも勿論アイデアがあるなら出して欲しいですし、僕の現場は、まずは役者さんが自由に自分で考えた芝居をやって頂く事から始まります。僕の現場は、役者さんが自分の思うようにやっても、誰にも迷惑をかけないし、やりたい気持ちを押し殺す必要もない。その様な場を作り、役者さんが生き生きとしてる身体を撮りたい。そしてその瞬間に出会えると監督ってなんて面白いんだと思って強くやってみたい方向に意識が変わりました」
――ただ、入学して半年後、コロナ禍で授業や卒業制作など全て頓挫してしまったと……。それでも、2021年の自主制作映画『もしくは、』を完成させて、同作は福井駅前短編映画祭で福井駅前賞を受賞。翌年には同映画祭同賞の副賞で、福井市を舞台にした短編『ふ、』を作られています。その後の発表となるのが今回の入選作『そこまで一緒に。』になります。身に沁みてくるような実感のある物語ですが、脚本はどのような経緯で書き上げたものなのでしょうか。
「僕の妻が元々シナリオセンターに通っていて、今は脚本家として活動しているんです。で、お恥ずかしい話なんですけど、僕は妻の事が好きで、妻と会話をもつ機会を増やしたいと思って、妻が通っていた時から1~2年後に、同じシナリオセンターに僕も行く事にしたんです。その時の課題で書いたのが今回のシナリオになります。7~8年前に書いた物です。
ベースとなっているのは自分の祖母のこと。自分が小、中学生ぐらいの時に、祖母は認知症になって、亡くなるまで叔母が介護をしていました。その事が物語のベースになっています。近いところで親戚の叔父にも同じような事が起きたので、その事も少し踏まえたところはありますけど、ストーリーとしてはほぼ変わらず、7年前に書いた脚本を使っています」
©2025「そこまで一緒に。」関寛之
――今回、この脚本を映画にしようと思ったきっかけは?
「福井で撮った『ふ、』が、アメリカの映画祭に招待されたんです。凄く嬉しくて現地に舞い上がって行ったんですけど、世界の壁の高さと厚さに愕然としたというか。とんでもない技術を持った高校生やハイクオリティ映像満載の20代の若手監督がわんさかいて、バンバン上映されているんです。招待されたはいいけれども、圧倒されて、帰りの飛行機はうなだれ過ぎて未だに記憶がありません。帰国後、しばらく呆然としてましたが、世界との差を痛感して、どうしたらこの差を埋められるのだろうと考えました。そこでふと思い出したのが、現地の主催者の方や審査員、プログラマーの方ともお話して、共通して言われたのが『我々はその国が抱える社会問題を観たい』という事でした。その時、僕は長編の脚本を2本、短編の脚本を5本持ってましたが社会問題をテーマにした脚本は今回の脚本だけでした。でもこの作品を製作するには今の自分では実力不足にも程があり、いきなり登山初心者が世界の名峰に登るくらい難しさを感じましたが、色んなキッカケが重なり、当時2023年でしたけど、日本の社会問題として2025年問題があり、自分の実力不足を待って、いま2025年問題を含むこの作品をやらなかったらもう2度出来ないかもしれないと思い、半ば見切り発車で出発してしまいました。
――作品は、登山服姿の二人、長野幸子とその夫が、途中で宿に一泊して、かつて新婚旅行で訪れた山へとバスで向かう。傍から見ると二人はありふれた家族にしかみえない。でも、その山への向かう道のりから、世間からはなかなか見えない彼らの社会的困窮と介護の現実が見えてきます。また、介護する立場のやるせなさや哀しみといった心の痛みも伝わってきます。
「この物語は祖母がモデルの話ですが、見切り発車をした際に演出部からこの物語と似た事件があると『京都伏見介護殺人事件』の事を教えてもらいました。そこから日本全国でいま現在もこんなに苦しんでいる人達が沢山いる事を知り、祖母だけではない、未だに答えが出ないこの社会問題を、そしてとにかく丁寧に1人の人間が追い詰められていってしまう現実を描こうと心掛けました」
――五十嵐めぐみさんと、戸田昌宏さんという素晴らしい実力のある俳優さんが顔を揃えました。
「夫役に関しては、実は脚本を書いている段階から戸田さんを想定していて、いわゆる当て書きをしていました。戸田さんは自分が入っていた劇団の主宰であり良き先輩俳優で、この夫役は戸田さんしか考えられなかったので、何年かぶりに連絡を入れて出演をお願いしました。『お前に頼まれたら断れないよな』みたいな感じで引き受けてくれました。
ただ、幸子役に関しては本当に難航しました。ある一線を越えてしまうシーンがあり、
実際に山にも登らなくてはならないので体力も必要という事で、覚悟はしていたところはあったのですが、何人も断られました。さすがに厳しいと。
その中で、もう諦めかけていたぐらいのところで五十嵐さんが受けてくださいました。
撮影中、いくつも大変なシーンがあったにも拘わらず笑顔でやって頂き、
五十嵐さんには本当に感謝しかありませんし、有り難かったです」
――いま話に出ましたが、一線を越えてしまうシーンは、そこまで描く必要があるのかという声も出るかもしれません。ただ、物語上で考えると、あのシーンはひとつの分岐点で。この作品を物語る重要なシーンになっています。
「ショッキングなシーンなので目をつぶってしまう人もいらっしゃるかもしれません。でも、僕自身は描く事にためらいはありませんでした。たとえば、認知症の事実について描く事の『核』のようなものがあったとして、それを水面に投げたとします。すると、投げ入れた核のところから波紋が広がっていく。その波紋だけを描く事では、核の部分を描いた事にはならないと思うんです。この作品の『核』は、ある意味、あの一線を越えてしまうシーンに集約されていました。1人の人間が追い詰められていってしまう現実を描こうとした時に実際にあのシーンを抜きにこの物語は語れないと思ったので、勇気を持ってきちんと描こうと思いました」
――もうひとつ、物語の行方を象徴するシーンとして山での神楽のシーンがあります。あのシーンも当初から考えていたのでしょうか?
「はじめからありました。というか、祖母の事がベースとしてはあったんですけど、脚本の出発点というか最初の思いつきは、埼玉県の三峰神社に行った時に、たまたま神楽を観た事だったんです。神楽を観ていてインスパイアされたというか、この設定から何か書けないかとなって、祖母の話に繋がっていったんです。ですから、はじめからアイデアとしてありました。
ただ、これも幸子役と同じく出演して下さる神楽の方々を探すのは本当に一苦労でした。商業映画でもない、単なる40後半のおじさんが自主企画で作ろうとしている映画ですから仕方ないんですけど、かなり難航しました。でも、神奈川県厚木市にあります
「相模里神楽垣澤社中」さんという素晴らしい神楽の方達にお願いをする事が出来ました。
そして今回の作品のテーマの1つであります自己犠牲を感じる演目はありませんかとお願いしたところ、『ある』ということで演じて下さったのがあの演目なんです。作品の内容上、少し結末を変えて頂きましたが、それにも快く応じて下さって本当に助かりました。この作品において神楽のシーンがあるとないとでは全然作品が違ってきてしまうので良かったですし、更には社中代表の垣澤瑞貴先生には、この作品の撮影場所の9割をご紹介して下さり、垣澤先生には本当に頭が上がりません」
©2025「そこまで一緒に。」関寛之
――では最後に、今回の入選の知らせを受けた時の心境を教えてください。
「ひと言、本当に嬉しかったです。応募したのはいいんですけど、色々と僕の方で不備があって応募時にSKIPシティの映画祭関係者の皆さんに迷惑を掛けてしまったので、メールが来た時にまた不備のメールだと思い沈んでいたら、それが入選という事で、本当に嬉しかったです。夜ご飯を作っていた妻に邪魔だと言われましたが妻と喜びを分かち合いました。そして五十嵐さんと戸田さんには本当に大変な役をお願いしましたので、このまま誰の目にも触れなかったら本当に申し訳ないと思ってましたが、快く引き受けてくださった戸田さんと五十嵐さんにも良い報告が出来ましたので、そういった意味でも本当に嬉しかったです。」
『そこまで一緒に。』作品詳細
取材・写真・文:水上賢治