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【インタビュー】『嬉々な生活』谷口慈彦監督
――今回の『嬉々な生活』は長編映画二作目とうかがっています。長編デビュー作を経て、どのようなことを考えていたのでしょうか?
前作の長編に関していうと、知人を介して監督を依頼されたという形でした。企画があって、メインキャストもほぼ決定済み。純粋に自分は演出部分のみを求められたところがありました。そのことについて不満のようなことはまったくなくて、作品としては納得のいくものができましたし、すごくいい経験にもなりました。
ただ、改めて思いを新たにするところがあったといいますか。その作品に携わるまで、8年以上、映画の現場からは遠ざかっていました。プロデュースで携わった作品はありましたけど、自分が監督を務めて映画を作ることはしていなかった。「自分で考えた企画を一度がっつりやりたい」という思いをずっと抱えていたんですけど、やれないできてしまっていました。その中で久々に監督を務めたことで、映画作りへの意欲に火がついて。「自分で考えた企画を一度がっつりやりたい」という意識が強くなり、今回の『嬉々な生活』の企画が動き出したところがありました。
――では、ある意味、自分発信・発案の初監督作品に『嬉々な生活』はなると思うのですが、アイデアの出発点は?
自分が日々過ごす中で、強く興味をもつことや関心を寄せること、無視できないことといったものがみなさんあると思うんです。自分にも当然あって、僕はそういったことをふだんからメモしているんです。
そのメモを改めて見直してみて、アイデアの種のようにして、シナリオを書き上げていきました。
――作品は、中学生の女の子、嬉々を主人公にした家族の物語。彼女の家族は、父・賢介、母・真弓と幼い弟・諒と妹・杏奈の五人家族で団地で幸せな生活を送っている。ところが、母の突然の死で生活は一変。父はふさぎこみひきこもりとなり失業してしまう。その父に代わって嬉々が家計も幼い兄弟のめんどうを一手に引き受けることになってしまう。犯罪すれすれのアルバイトをしながら自分の力でどうにか現状を変えようとする嬉々の姿が描かれます。たとえば生活保護受給の問題やヤングケアラーの問題など、いまの社会状況が物語に反映させていると思うのですが、なにか考えたことはあったのでしょうか?
まず自分がメモしていたことからインスピレーションを得てということがありました。メモしたことを考えてシナリオを書き上げていったら、自然といまおっしゃっていただいた問題が入ってきたんですよね。
ただ、書きためておいたメモを見て考えたことは確かにありまして。いまの社会はかなり脆弱さをはらんでいるのではないかと。
一歩間違うと、嬉々の家族のように一気に生活が立ちいかなくなってしまう。そうなったとき、すぐそばに犯罪があって、若い世代があまり深く考えないままつい手を出してしまう。セーフティネットはあるのだけれど、アクセスするのはものすごくハードルが高い。ほんとうに失敗の許されない社会で、不安定なギリギリのところに身を置いている人が多く存在するのではないかと考えました。そのことを物語に反映させたところはありましたね。
でも、主として描こうと思ったのは社会情勢というより中学生ぐらいのちょっと活発な女の子=嬉々のことです。ヤングケアラーといった問題は彼女を取り巻く環境に過ぎない。嬉々という人間をしっかりと描きたい気持ちを強くもっていました。
確かに最初、脚本を読んだキャストの何人かからも言われたんです。「ヤングケアラーについて描きたいんですか?」「闇バイトについて問題提起したいんですか」といったことを。僕としては「違う」と、あくまで描きたいのは今の時代を生きる女の子と伝えました。
©belly roll film
――ちょうど高校生に上がる一歩手前、14歳、15歳の女の子をなぜ描こうと?
そうですね。僕の考えではあるのですが、このぐらいの年齢はひじょうに重要な時期を迎えているのではないかとの思いがありました。一番多感なときで、未成年でまた大人ともいえなければ、子どもかといわれるとそこまで子どもでもない。どっちにでも振れる年ごろで、このときにどのような人と出会って、どのようなことを経験して、どのような環境に身を置いているのかは、その後の人生に大きく影響するのではないかとの考えがありました。
そこでこの年代の子を描いてみたいと思いました。
――嬉々は学校にもあまりいけなくなり、バイトも思うよりは稼げない。家のこと弟と妹のめんどう、もっと言えば父親のことまで気にかけてギリギリの毎日を送っている。ただ、けっして下は向いていない。本来ならば家計を支えなければならない父を責めることもしない。
一方で、大人はだらしがないといいますか。さきほど触れたように、なかなか忘れられないことと理解しながらも父親は妻の死を受け入れられず、うつ状態にもなっている。それから嬉々の学校の担任の高妻先生は授業がうまくいかず学校を辞めてしまい、秘かに上司にあたる教師に嫌がらせを始める。嬉々の味方にはなってくれるのですが、彼女もまた頼りがない。嬉々の周りにこのような大人を配置した意図はあったのでしょうか?
いまの社会を考えて、大人がもっとしっかりしないと、といった意識が僕の中になかったわけではないですけど…。
それ以上に、父親と高妻先生にはモデルがいて、そこを反映させた結果が大きいです。
まず、嬉々の父に関して言うと、僕の父親を反映させているところがあります。いまから7年前ぐらいに母が亡くなったんですけど……。以来、父が急に覇気がなくなったというか元気がなくなったというか。常に泣き言いっているような感じになったんですよね。それまでわりと亭主関白とまではいいませんけど昭和の堅物な男のイメージで、弱音を吐いたり、めそめそするような感じではなかった。でも、母が亡くなった途端に落ち込んで。僕も母を失って大きな喪失感があって悲しいのだけれど、父をみていると落ちこめなかった。「元気だせよ」みたいな感じで、励ます立場にならざるをえなかった。その経験があって、父親はあのような人物像になっていきました。
それから高妻先生に関しては、僕の中学時代の先生がモデルになっています。映画の中で描いている通り、英語の先生だったんですけど、ものすごく熱心で何日もかけて作ったと思われるテキストを黒板全面に貼りだしていろいろと趣向と工夫を凝らして授業をしていました。ただ、当時の僕らはまったく授業をきかなかった。教育実習を終えてすぐぐらいの若い女性の先生で、完全に生徒になめられてまったく授業になっていなかった。でも、最初は「みんな聞いて」とか先生は言っていたんです。でも、だんだん注意することもなくなって、あるとき、作品でも描いていますけど、もう完全に諦めきって魂の抜けたような顔をしているときがあった。その顔はいまも鮮明に覚えている。で、突然いなくなったと思ったら退職されていた。今考えると、黙って授業を聞けばよかったと思うんですけど、当時はそうできなかった。で、これが罪滅ぼしになるかはわからないですけど、当時の反省も込めて高妻という役にかつての先生を反映させえて描きました。
©belly roll film
――作品全体を通して、これは世の中の悪なのか、これは果たして正しいことといえるのか?といった善と悪について問い続けるような物語になっている印象を受けました。
そこは自分の中でも一番重要なことで。まず当事者になりすぎた目線にだけはしないようにしようと心掛けました。当時者目線になってしまうとどうしてもその人の言い分がすべて「正しい」という形になってしまう。そういう一方的な意見を押し付ける形にはしたくなかった。
たとえば、弱い立場の人間が主人公で、そちらの立場の人間の視点からしか描かれないと視野が狭くなってしまう気がするんです。むしろ逆の立場の人間の視点を入れたほうが、それぞれの言い分がわかって、たとえばある問題に対して理解がより深まるのではないかと。
あまりに当事者になりすぎた目線だと、たとえば弱い立場の人間だったら、かわいそう、強い立場の人間だったら、めぐまれているとかひと言で片づけられてしまう気がするんです。
それでなるべくいろいろな立場の人間のそれぞれの意見や考えをフェアに描くことを『嬉々な生活』で心掛けたところはあります。簡単に白黒はっきりとさせることができることなんてそうありませんから。
――キャストについても聞きたいのですが、嬉々を演じた西口千百合さんはどういった経緯で?
彼女は僕が演技指導の講師を務めている芸能プロダクションの演技レッスンの生徒です。一番最初に出会ったときは確か小学校6年生か中学一年生だったと思います。そのころから、なんかちょっとだけ印象に残る子だなと思っていました。
で、今回の作品の企画が決まったとき、キャストに関してそのスクールの全面協力いただく形なって。
そのレッスンのクラス内で同じぐらいの年の子を集めて嬉々役のオーディションをすることになり、そこで西口さんに決めました。
嬉々役に求めたのは明るさと逞しさ。逆境であってもポジティブさと強さで乗り越えていってしまうような子をイメージしていました。
中でも明るさは重要で。演技講師の立場から言うと、たとえば陽キャの子を陰キャにすることはさほど難しくはない。でも、逆の陰キャの子を陽キャにするのってなかなか難しいんですよ。だから、持って生まれた明るさがあるこがいいなと思っていました。
で、西口さんはものすごく明るい子なんですよ。中学生や高校生ぐらいはほとんどそうかもしれないですけど、5分ぐらい放っておくと、ほかの子とキャアキャアしゃべって楽しそうにしている。
彼女、中学校でソフトボール部のキャプテンをやっていて、逞しさを感じたのも理由の一つです。
実際演じてもイメージ通りで、嬉々の明るさと逞しさをうまく表現してくれて。いい意味でかわいそうと同情されない、僕が考えていたヒロインを体現してくれたと思います。
――では、話は変わりますが、今回の入選の報せを受けたときはどんな感想を?
素直にうれしかったです。プロデュースを担当した磯部鉄平監督の『ミは未来のミ』と『コーンフレーク』がSKIPシティには入選していて。彼からも映画祭のことをきいていましたし、僕自身も歴史と格式のある映画祭として学生時代から認識していました。
ただ、国際コンペティションに入選したのは、ちょっとビビりました(苦笑)。というのも、磯部から「国内コンペティションのレベルもそうとう高いけど、国際コンペティションとなるとさらにレベルが高くて選ばれるのは至難の業」といったことを聞かされていたので、てっきり国内コンペティションと思っていたんです。
そしたらまさかの国際コンペティションで、『嘘だろ。ほんとうに?』と驚きました。
――磯部監督から今回の入選についてなにか言葉をかけられましたか?
いや、なんか改まって「おめでとう」と喜びを分かち合うような仲ではないので、「あぁそうなんや」みたいな軽いやりとりでしたけど、喜んでくれました。
――ここからはこれまでのキャリアについての話を。映画監督を目指すきっかけは?
僕は遅くて、そもそも映画を本格的に見始めたのも高校を卒業したぐらいからでした。
そのころはちょうどたとえば女性ファッション誌でジャン=リュック・ゴダールの映画が紹介されるような単館系の映画がブームで。姉がいるんですけど、彼女を介してゴダールやウォン・カーウァイ監督の映画を知って、自分でも初めてミニシアターにいきました。
はじめはゴダールを見ても「なんじゃこれ?」と首を傾げましたけど(笑)、気づけばはまっていきミニシアター通いが始まり、学生たちの自主映画までたどり着いていました。その流れで、ちょっと自分も映画を作ってみたいなと。それでもう社会人になっていたんですけど、ビジュアルアーツ専門学校大阪の放送映画学科の夜間部に働きながら通い始めたんです。
――そのときに、磯部鉄平監督とは出会った?
そうです。同期に磯部がいて、彼とはそこから今日までの付き合いになります。
――専門学校に通い始めて、本格的に映画監督を目指し始めたと?
いや、そこまでの覚悟はまだなかったと思います。とにかく1本、映画が作れたら満足といった感じであまり先のことは考えていなかったですね。ただ、学校在学中に短編を何本か完成させて、卒業後、映画の撮影現場に参加するようになって。その関係で知り合いを介して、演技指導の講師をしてみないという話が舞い込み、やってみたら意外と自分に向いていて面白い。その流れで映画制作のワークショップを始めたり、2019年には磯部と株式会社 belly roll filmを設立して制作会社を始めたりとなり、いまに至っています。ですから、気づけば映画の道に進んでいたようなところがあります。
取材・写真・文:水上賢治