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【インタビュー】『写真の女』串田壮史監督
――作品のことについて伺う前に、イギリスで映像作りを学んだということなのですが?
はい。映像制作を志して、イギリスの芸術大学の実験映像学科に進みました。
――なぜ、イギリスで学ぼうと?
ミュージック・ビデオの影響が大きいです。1990年代の終わりぐらい、ミッシェル・ゴンドリーやスパイク・ジョーンズ、クリス・カニンガムといったミュージック・ビデオをとる監督たちが注目を集めていた。その影響を受けて自分も映像の道に進みたいと考えるようになりました。
とりわけクリス・カニンガムが僕は大好きだったので、じゃあイギリス人である彼の母国で学びたいなと。僕自身は大阪出身なんですけど、ここにいては『ああはなれない』だろうということで(笑)、イギリスに行くことにしました。
――大学ではどういった映像制作を?
日本語に訳すと実験映像学科となるんですけど、英語では『フィルム&ビデオ』と記されていて、僕は映画の学校に違いないと思ったら、実験映像を作ることを推奨している学科だったんですよね(笑)
それまで、僕は実験映像作品にほとんど触れたことがなかった。講義で一番最初に魅せられたのが部屋の隅に置かれたカメラが、45分間、ずっとその部屋を映し続けるというもの。ほとんどの学生が「これはなんなんだ」と思うわけですけど、教授が「部屋を観ている間に、君たちは自分のことを考え始めただろう」と言って「なにか映像をみるということは、なにか自分のことを考えることでもいいんだ」というような主旨のことを伝えられて、衝撃を受けて、せっかくだから実験映像作品を作ってみようと思いました。
ですから、大学に入ってからストーリーのない、主に人間の肉体や身体性に着目した映像作品をずっと作っていましたね。いわば身体の動きを映像に収めるような作品で、ダンス関連の映像祭で上映していただく機会に恵まれました。それからしばらくは、そういったダンスに関する映像作品ばかりを作っていました。
いわゆるフィクションの要素を入れたものは、今回の『写真の女』の前作に当たる『声』からになります。
とはいえ、この『声』という作品も人が対話するシーンはなくて、人の動きだけでストーリーを語る作品で。そのアプローチは『写真の女』にも引き継がれているところがあると思います。
――人間の身体について着目するきっかけはあったのですか?
イギリスに行ってたわけですけど、言葉がまったくわからない場面が何度も出てくるわけですね。英語にも方言があって、まったくわからないときがある。でも、その輪に加わらないといけないとなると、つぶさにその人の口調や態度、表情を見るようになる。
すると、なんとなくその人物が冗談いっているのかとか、真剣なこと話しているかが表情や会話の間で感覚としてわかるところがある。
そういう実感を前にしたとき、実は、言葉よりも表情や身振り手振りといったことがその人間の素直な気持ちを表しているのではないかと思ったんですよね。
日本人でもアフリカ人でも怒ったときの表情とか、驚いたときの表情とか実は同じで。身体的な表現の方が、実は誰が見てもわかる。言葉で説明せずとも、身体的な表現で心情が伝えることはできる。また、これはいわゆる映画的な表現とつながるとも思いました。
口先でなにか言うよりも、身体のほうがよっぽどなにかを物語ることができるのではないかと思ったのが「身体」に着目するようになったきっかけです。
――では、改めて前作の短編『声』があって、そこから長編へはどういう経緯でいき着いたのでしょう?
長編映画を作るタイミングをずっと模索していました。ただ、僕が長編を作るとなったとき、1番の問題は僕をスタッフが信頼してくれるかどうか。僕のためにスケジュールを空けてくれないと作りたくても作れないわけです。
で、幸運にも『声』は、90ぐらいの映画祭を巡って、いろいろと受賞もして、いわゆる名刺代わりの作品になってくれた。そこで、説得するのは「いましかないな」と(苦笑)。そこから始まりましたね。
――ストーリーの構想は以前からあったのでしょうか?
構想は15年ぐらい前にさかのぼります。CM撮影の現場で働き始めたのですが、1番驚いたのがレタッチという技術でした。撮影された映像や写真がレタッチで修正されている。
しかも、女優さんによっては、そのレタッチする技術者が決まっている。編集マンが修正した映像なり画像をみて、女優さん本人が最終的にOK出しをする。
このことを知ったとき、複雑な気持ちになったというか。画面の中の自分はレタッチでどんどん美しくなっていく。でも、それは実物の自分という人間を否定しているようにも映る。
この人はどんな気持ちでレタッチをやっているのかなと考えたとき、自分を歪めて、他人から好かれる自分を作って、それがまた自分も好きなのかなと。ただ、当時はまだそうした美を求められる立場の人の特殊な欲求を満たすもののようにも思えたんですよね。
でも、10数年が経ったいま、もはやレタッチは一般の人にも浸透した。一般の人たちの間でもそうしたアプリを使って、自分がきれいにみえるように修正している。
そうした中、フランスでは、人々に歪んだ美意識を与えるからということで、レタッチした広告はレタッチしたとクレジットしないとけないことになった。こうした歯止めをかける国も出てきている。
でも、日本では他人に好かれるために加速しているように僕の目には映って、レタッチをテーマに映画を撮るなら今だなと。それでシナリオを書くことにしました。
――その物語の舞台は古ぼけた写真館。店主である械は、高度なレタッチ技術を活かして客の望むまま写真を修正している。ただ、そうした女性のいわば承認欲求を目の当たりにしているからか、彼は女性恐怖症。そんな彼のもとに山で偶然出会い、身体を負傷していたキョウコが転がりこんできて、彼女に傷を消す画像処理を頼まれることからなにかが変わり始めます。
たとえば、SNSでレタッチをして完璧な自分の画像を出す人も、逆に素顔の画像を出す人も共通しているところがあるんじゃないかなと。それは、他人を通してでしか、自分をみられないし、自分を愛せないことではないかと思ったんですよね。
他人が見る自分が重要で。レタッチする人は美しい自分を他人にみられることで喜びを感じている。素顔をさらす人も、それを他人にみてもらい、受け入れられることによって喜びを感じている。やっていることは真逆だけど、意識は一緒ではないか。
要は、他人を通してでしか自分を愛せない。愛を知らないから、他人を愛せない。
一方で、械という男には男性目線で占められる日本社会が反映されています。これは自分も身を置いているのでわかるのですが、世の中に溢れている広告のイメージがほとんど男性によって作られている。特に40代以上の男性で作られている。かくいう僕もそこに入っているんですけど(苦笑)。つまり、どこか男性が望む女性になっている。
それで修正を頼まれることもあるわけですが、受けたこちらとしては、間接的にその人を否定したような気分になるんですね。でも、相手の方に『きれいにしてくれてありがとうございます』と言われることもある。これはご本人を肯定していることになるのか、否定していることになるのかわからなくなるときがある。
こうした現状を踏まえながら、現代の愛の在り様を表現できればなと思いました。
――この中で、械はある境地へいき着くことになる。これを象徴するシーンとして示されているのが、メスのカマキリが交尾をした後、そのオスのカマキリを食べてしまうところ。よく実際に撮影できましたね。
カマキリの研究家の方を探し出してお願いしました。撮影にも立ち会っていただいて、カマキリの演技を引き出す方法を教えていただきました。
カマキリの習性を熟知していて、たとえば目を合わせたいときは、カマキリは自分より高いものに登っていく習性があるから、手を下に構えて、顔を上にするとちょうどその位置にくるとか。
あの共食いのシーンに関しては、メスを空腹にして、しかもあまり空腹にすると死んでしまうのでオスと交尾して食べる体力だけは残すギリギリの空腹状態にしてくださったんですよね。すると、あのようなシーンが撮れた。
――このシーンをはじめ、どの場面も隅から隅までこだわりを感じます。とりわけロケーションもすばらしい。主要な舞台となる写真店も、まさに械が生きて住んでいる場所になっています。
ストーリーボードを書いて、こういう場所を探していることを伝えて制作チームに探し出してもらいました。
写真館は探すのに1番苦労した場所です。ほんとうに古い佇まいの写真館がもうほとんどなかったんですね。調べていくと、もうすでに閉店して無くなっていることの連続。
それでようやくみつかったのがあの写真館で。もう藁をもつかむ気持ちで、お願いしにいったんですけど、映画の説明をしたら、ご主人が「これは俺の話だ」と言い始めたんですよ。「レタッチをやって、女性に振り回されるのは俺の人生そのものだ」と(苦笑)。
それで一発OKでお借りすることができました。
外のロケーションに関しては、物語を現実とイリュージョンの世界を往来するような形にしたいと思っていたので、あまり現実味を感じないところを探してもらって、ほとんどが千葉です。千葉はイリュージョンの宝庫ですね(笑)。
美術要素は重要で、キャラクターが生きている日常をわからせないといけない。役者が演じる上での助けにもなるので、手は抜けない。
あと、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『赤い砂漠』という映画に、精神を病んでいく女性が歩いていて、背景の原っぱが天然色から赤に変化する。ある種、この女性の心情を表しているんですけど、このように人間だけの表情だとちょっと臭くなってしまうシーンも背景を強烈なものにするとバランスがとれて気にならなくなってしまう。こういうことを意識していたので背景もこだわりました。
――それから音もすばらしいですね。レタッチの音はしびれます。
ほぼサイレント映画の音の付け方に習っています。すべて後からつけています。たとえば主人公の械が歩いていて、横を自転車が通り抜けていくシーンがあります。ここはほぼ械の足音しか聞こえないようにしている。それはこの男が主人公の映像であることを強調するため。そういう意図のもとサウンドデザインをしています。
――主人公の械役は、平田オリザ主宰の青年団に所属し、フランスや韓国の海外公演も経験している永井秀樹さん、一方のヒロイン、キョウコ役は20年以上にわたるバレエ経験のある大滝樹さん。お二人とも『声』にも出演している。まず、串田監督がこれまで追求してきた身体での表現をまっとうする、ひとことも言葉を発することのない械役の永井さんの起用理由を。
永井さんが所属されている青年団主宰、平田オリザさんのドキュメンタリー映画を観たことがあるんですけど、稽古でほとんど感情のことはいわない。そのセリフの間を1秒つめてとか、歩くスピードを3秒遅くしてとか、数字の指示が飛ぶ。すると永井さんはそれをすぐ修正するんですよね。
実は今回の撮影法は、音はすべて後付け。現場では僕がいろいろと指示している。そうした即座に対応してくれる俳優さんは永井さんしかいないなと思いました。
あと、械はごくふつうの一般的な日本の男性がいいと思いました。でも、電車で居合わせそうなおじさんにみえる役者さんてなかなかいないんですよ。それで、僕は永井さんのこと和製ジェームズ・ステュアートと思っているんです。ジェームス・ステュアートって、ごく普通の典型的な白人のアメリカ人を演じている。ふつうの日本人をできるのは永井さんの特徴だと思って、お願いしました。
今回ご一緒して感じたのは、映画の歴史で最も共感を得たキャラクターってチャップリンだと思うんです。人が共感するのは言葉じゃなくてやはり動きや表情で笑ったり泣いたりする。永井さんはそれを心得ているすごい人だと思いました。
――大滝さんの方は?こちらもバレエをやっていたこともあって、身体で表現できる俳優さんだと思いました。
長編映画を作るときに、やはりひとつ驚きがあったほうがいいと思っていて。とくにキョウコというヒロイン役に関しては、一般的には広くまだ知られていない方、イメージのついていない人がいいと考えていました。その方が、映画を観てくださる人が、先入観なく新鮮な気持ちで出会うことができる。大滝さんは映画で主演するのは今回が初めてで、長編映画に出るのもほぼ初めて。それで身体で表現できる俳優さんであることはわかってましたから、再びお願いしました。
今回組んで感じたのは、つかこうへいさんの劇団にいたこともあってか、表現が濃密なんですよね。濃くする演技はいくらでもできる。だから、薄める必要があった。
でも、肉体で迫ってくる感じは僕が求めている身体での表現とマッチしているので、やっていて非常に心強かったです。
――それからタイトルにも入っている「写真」というのはキーワード。先ほど話にでた、美への意識から改ざんされていくことが描かれる一方で、永遠に残るもの、記憶をよみがえらせるものという写真本来のあるべき姿への敬意も感じます。それで串田監督が現在ピラミッド・フィルムに所属されていると聞くと、大写真家の操上和美さんの影響とかを考えてしまうのですが?
これは告白しないといけないですね。操上さんの影響はあります。「写真は昔はごまかしがきかなかったけど、いまはなんでもごまかせてしまうな」といったようなことを操上さんから聞いて、それがどこかずっと心に残っていて。
それで「写真に写るものは、そのときに感じたものを撮っているから、なにを撮っているかよりも、シャッターを押したその瞬間にこそ、写真のおもしろみがある。それがリアリティだ」というような操上さんの写真に対して大切にしていることを聞いてきたんですね。
それで、僕としては修正技術がいくら向上したとしても、人の心をうつ写真は、なぜそこでシャッターが切られたのか、それを感じられる写真だと思って。その想いを作品に封じ込めたところはあります。
――女性の承認欲求や、美しく修正され作られた自分の中の自分ということがいわば反面教師になって、自己の確立や自己の肯定についての物語にもなっていると思いました。
もはや敵は巨大な悪とか、社会とかではないような気がするんですよね。闘いは己の中にこそあるのではないかと。
いまの日本はいろいろと選択肢がある。そこから、どういう風に生きるかは結局、他人や誰かではなく、自分で見つけるしかない。そういう意味でアイデンティティーについての映画でもあるのかなと思います。
――今回、国際コンペティション部門で唯一選出された日本映画になります。
身体での表現をひとつのテーマにして、日本人でも、アメリカ人でも、世界中の人に届く作品を目指していたので、国際コンペティションに選ばれたことは光栄に思っています。いろいろな方にみてもらえればと思っています。
文=水上賢治